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福岡高等裁判所 昭和29年(う)737号 判決

控訴人 原審検察官 米野操

被告人 森口孝之 外二名

検察官 宮井親造

主文

原判決中被告人守昌之に対する麻薬所持罪の点を除きその余の部分を破棄する。

被告人森口孝之を懲役六月に、被告人守昌之、同上田彩夫を各同四月に処する。

但被告人三名に対し本判決確定の日から各三年間何れも右刑の執行を猶予する。

本件控訴中被告人守昌之の麻薬所持に対する部分を棄却する。

理由

検察官が陳述した控訴の趣意は原審検察官米野操作成の同趣意書に記載の通りであり、これに対する被告人守昌之、同上田彩夫の弁護人下尾栄の答弁は何れも同人等提出の答弁書に記載の通りであるから、ここにこれを引用する。

原判決には被告人等に対し、無罪の言渡をした理由に付、詳細な説明はないが記録を精査すると原裁判当時本件薬品は既に存在せず(従つて鑑定を命ずること不能)その鑑定書すらもない為、それが果して麻薬取締法規所定の麻薬に該当するかどうか科学的に確定し得ないことを主たる理由とするものであることを推測し得る。

よつて先ず麻薬事犯にあつては麻薬である旨の鑑定を待つにあらざれば常に有罪の認定をなし得ないか否かの点に付按ずるに、麻薬事犯においては当該薬品が該取締法規所定の麻薬に該当することが核心であり先決問題であること勿論である。しかるに麻薬なりや否やは専門的知識を待つて始めて判明し素人の推断を許さない科学上の問題である故原則的には専門家の鑑定によるべきこと、また当然と云わねばならない。しかしながらこれはどこまでも原則であつて如何なる場合にも例外を認めないと云う訳ではない。例えば非現行犯であつて検挙当時既に現品が存在しない場合は勿論、検挙当時現品は存在していたがその後滅失し或は稀少であるか変質した為鑑定不能の如き場合にまで右の原則を貫こうとすれば麻薬事犯の如きはその一半の検挙又は処罰を不能ならしめる不合理に陥るであろう。

かかる場合には右原則の例外として鑑定以外の証拠によりその麻薬であるか否かを判定するを許し、唯々この場合事柄の性質に鑑みその証拠は特に厳格なる実験則に照らし高度の信憑性を客観的に有するものに限るとなすを最も条理に適した解決と信ずる。

本件に付いて検討すると本件の薬品は検挙当時既に存在せず従つて裁判所においては勿論捜査官においてもまたその鑑定を嘱託するに由なかつたこと記録によりこれを看取し得る。かかる事情にある一方被告人中森口は薬剤師(薬麻取扱者)他の被告人両名は何れも医師(被告人上田は麻薬取扱者、被告人守は昭和二十二年八月まで同上)であつて何れも麻薬に関し相当の知識と経験とを併せ有するものであるところ自己が被告人である本件において検察官の取調に際しては勿論差戻前の第一審公判においても何れも本件薬品が全部塩酸モルヒネであることを素直に認め(尤被告人等は差戻後の第一審公判においては右薬品が塩酸モルヒネであつたかどうか判らないと述べているが記録を精読すると該陳述は何等か為にするものと認められ到底信用できない)なお被告人守及森口(同被告人は同人が被告人上田から買受けた二〇瓦を小分けして松野日出子に分譲)から右薬品を入手服用した原審相被告人松野日出子は麻薬中毒者(本件薬品服用後中毒者となつたか以前から中毒者であつたかはこの場合論外)であること記録によつて洵に明白である、かかる事情の下における本件においては正に前示原則に対する例外として検察官所論の被告人等の各供述及松野の供述により該薬品が塩酸モルヒネであることを表裏から認定するも何等実体法並訴訟法に違背するものでないと云うべきである。果してそうだとすれば冒頭記載の如き理由により被告人等に無罪の言渡をした原判決(但被告人守に対する麻薬所持罪の点を除く)には所論の違法がある。従つて原判決中右除外部分を除くその余の部分に対する本件控訴は理由がある。

本件控訴中右除外部分に対する分は右公訴事実に対する証明がないのでその理由がない。

よつて刑事訴訟法第三百九十七条により原判決(但前示除外部分を除く)を破棄し同法第四百条但書に則り次の通り自判し、本件控訴中右除外部分に対する部分はその理由がないので同法第三百九十六条に従いこれを棄却する。

第一、被告人森口は薬剤師であつて麻薬取扱者(麻薬小売業者及家庭麻薬小売業者)の免許を有する者であるがその業務の目的以外のために、

(一)  昭和二十三年九月下旬頃肩書自宅において被告人上田彩夫から塩酸モルヒネ二〇瓦を代金二万八千円で譲り受け、

(二)  同二十四年二月下旬右自宅において松野日出子に対し、塩酸モルヒネ〇、二瓦を代金五百円で譲り渡し、

第二、被告人守は医師ではあるが麻薬取扱者の免許を有していないに拘らず昭和二十三年六月二十五日と同月二十八日頃の二回に小倉市西魚町の松野日出子方で同人に対し、塩酸モルヒネ各一瓦宛を代金合計金四千四百円で販売し、

第三、被告人上田彩夫は医師であつて麻薬取扱者の免許を有していたものであるがその業務目的のためではなく同二十三年九月下旬頃被告人森口の前示自宅で同人に対し、塩酸モルヒネ二〇瓦を代金二万八千円で譲り渡し、

たものである。

右の事実中第一の(一)、第三の点は

一、原審第二回公判調書(差戻前)中被告人森口、上田の各供述記載

一、検事富田正己作成に係る被告人森口の第一回供述調書

一、同検事作成に係る被告人上田の供述調書

一、福岡県知事の麻薬取扱業務停止処分命令書

第一の(二)の点は

一、原審第五回公判調書(差戻後)中訴因及罰条変更請求書の記載に対し被告人森口の事実は相違ない旨の陳述(訴因及罰条の変更請求書記録四〇二丁)

一、前顕検事作成に係る原審相被告人松野日出子の第二回供述調書

第二の点は

一、原審第一回公判調書(前同)中被告人守の陳述

一、同第四回公判調書(前同)中同被告人の供述(但数量の点を除く)

一、前出検事作成に係る前同松野日出子の第二回供述調書(但数量並回数の点を除く)

一、同第一回公判調書(差戻前)中被告人守の昭和二十二年八月麻薬取扱者の認可証を返納した旨の供述記載

を綜合し、本件薬品が何れも塩酸モルヒネである点に付いては右の外なお被告人等及前出松野日出子の差戻前第一審第二回公判における起訴状並追起訴状記載の公訴事実は相違ない旨の各陳述及松野の検事に対する前顕供述書の記載によつて明な同女は麻薬中毒者であり本件譲受けの薬品は全部その為自己に使用した事実をも綜合し判示事実全部を認定する。

法律に照らすと、被告人森口の判示第一の(一)(二)の点は何れも昭和二十八年法律第十四号麻薬取締法附則第16同二十三年法律第百二十三号麻薬取締法第三条第二項第一項本文第五十七条第一項に該当するところ右は刑法第四十五条前段の併合罪であるから所定刑中懲役刑を選択し、同法第四十七条第十条により犯情の重い第一の(一)の罪の刑に法定の加重をした刑期範囲内で同被告人を懲役六月に処し、被告人上田の判示第三の点は昭和二十八年法律第十四号麻薬取締法附則第16同二十三年法律第百二十三号麻薬取締法第三条第二項第一項本文第五十七条第一項に該当するところ所定刑中懲役刑を選択しその刑期範囲内で同被告人を懲役四月に処し、被告人守の判示第二の点は昭和二十三年法律第百二十三号麻薬取締法附則第七十四号同二十一年厚生省令第二十五号麻薬取締規則第二十三条第五十六条第一項第一号に該当するところ所定刑中懲役刑を選択しその刑期範囲内で同被告人を懲役四月に処し、なお刑法第二十五条を適用し被告人三名に対し本裁判確定の日から三年間何れも右刑の執行を猶予すべきものとする。

よつて主文の通り判決する。

(裁判長判事 下川久市 判事 青木亮忠 判事 鈴木進)

検察官の控訴趣意

原判決は判決に影響を及ぼすことが明かな事実の誤認があり破棄されるべきものであると思料する。原判決は、本件公訴の要旨は、

第一、被告人森口孝之は法定の除外事由がないのに

(一) 昭和二十三年九月下旬頃小倉市三萩野九百四十七番地の自宅に於て被告人上田彩夫より塩酸モルヒネ二十瓦を代金二万八千円で買受けて之を譲り受け

(二) 昭和二十四年二月下旬前同所の自宅に於て松野日出子に塩酸モルヒネ〇、二瓦を代金五百円で譲渡し

第二、被告人守昌之は法定の除外事由がないのに

(一) 昭和二十三年六月二十五日と同月二十八日頃の二回に亘り小倉市赤坂百七十番地の自宅に於て松野日出子に塩酸モルヒネ各一瓦宛を代金合計四千四百円で販売し

(二) 昭和二十四年七月頃前示自宅に於て塩酸モルヒネ注射液一cc入十本計塩酸モルヒネ〇、二瓦を所持し

第三、被告人上田彩夫は法定の除外事由がないのに昭和二十三年九月下旬頃前示自宅(註小倉市三萩野九百四十七番地被告人森口孝之方を裁判所が誤記したものと解せられる)に於て被告人森口孝之に塩酸モルヒネ二十瓦を代金二万八千円で譲り渡したものであると言うのであるが犯罪の証明がないから刑事訴訟法第三百三十六条後段に依り被告人等に対しては何れも無罪の言渡を為すべきである。

として被告人三名に対しそれぞれ無罪の言渡をした。

しかしながら被告人守昌之に対する公訴(二)の事実を除けば他は何れも十分なる証拠が存するのである。即ち前掲第一被告人森口孝之に対する公訴(一)の事実は同被告人に対する検察官作成の供述調書(記録第百七十二丁表十二行より同丁裏一行まで)及び被告人上田彩夫に対する検察官作成の供述調書(記録第百九十一丁表十二行より同丁裏五行まで)の各記載に徴し、同(二)の事実は被告人森口孝之の第五回公判に於ける供述(記録第三百九十六丁表十二行より三百九十七丁表三行まで)及び松野日出子に対する検察官作成の供述調書(記録第百五十九丁裏八行より同十二行まで)の記載を綜合し、第二被告人守昌之に対する公訴(一)の事実は同被告人の第四回公判における供述(記録第三百八十七丁表十二行より三百八十九丁末行まで)及び松野日出子に対する検察官作成の供述調書(記録第百五十九丁表十二行より同丁裏七行まで)の記載(被告人守昌之に対する公訴(一)の事実中小倉市赤坂百七十番地の自宅に於て、とあるは小倉市西魚町二十八番地松野日出子方に於て、の検察官の誤記)に徴し、第三被告人上田彩夫に対する公訴事実は同被告人に対する検察官作成の供述調書(記録第百九十一丁表十二行より同丁裏五行まで)及び被告人森口孝之に対する検察官作成の供述調書(記録第百七十二丁表十二行より同丁裏一行まで)の各記載に徴し、いずれも十分これを認め得るのであり、殊に被告人等が医師又は薬剤師であつてそれぞれ麻薬取扱の経験を有し(記録第四十五丁表五行より四十七丁表二行まで)従つて塩酸モルヒネに対する高度の鑑識眼を備えていて被告人等の塩酸モルヒネを授受した旨の本件各自白(被告人森口孝之については、記録第百七十二丁表十二行より同丁裏一行まで、及び、三百九十六丁表十二行より三百九十七丁表三行まで、被告人守昌之については、記録第三百八十七丁裏十二行より三百八十九丁裏末行まで、被告人上田彩夫については記録第百九十一丁表十二行より同丁裏五行まで等)が充分措信し得る点並びに本件塩酸モルヒネが殆んど松野日出子により麻薬として同人の身体に施用され(記録第四十四丁裏一行より同二行まで)その結果同女は麻薬中毒者となりこれが治療のため昭和二十三年九月九日より同年十二月十四日まで小倉市日明丸山町日明病院に入院し(記録第百五十九丁裏末行より百六十丁裏一行まで、及び二百七十九丁)更に昭和二十五年十月三十一日福岡県立筑紫保育院に入院し現在まで在院している事実(記録第三百五十四丁)に徴し本件塩酸モルヒネが真正の塩酸モルヒネであることを証して十分であると思料する。

従つて原判決がかかる証拠を無視してことさらに犯罪の証明なしとして無罪の言渡をした理由は本件証拠中本件塩酸モルヒネそのものが発見されなかつたため被告人間に授受又は所持した物件が果して塩酸モルヒネであるかどうかを科学的に立証し得ないことに因るものと解せざるを得ないが然しかくは麻薬取締法又は覚せい剤取締法等の違反事件の如きは現行犯人以外は殆んど処罰不可能となり著しく正義に反するのみでなく刑事訴訟法上の採証の法則を制限する結果に陥り甚だ不当である。故にこの種事犯において物的証拠を欠くとするも裁判所は証拠上心証十分なるにおいては断乎有罪の判決を為すべきであり、現に麻薬そのものが発見されなくとも、その他の証拠によつて有罪となつた実例が相当あり、そして本件は前叙挙示の全証拠を綜合すれば本件物件が塩酸モルヒネであつたことは容易にこれを認定することができ、公訴事実はその証明十分であつて有罪の言渡をするも何等誤判のおそれがないと確信するのである。

以上の理由により原判決が本件塩酸モルヒネを科学的に立証する物的証拠のない点にとらわれ犯罪の証明なしとして被告人等に無罪の言渡をなしたのはまさしく判決に影響を及ぼすこと明らかな事実の誤認である失当の判決であるから速かに原判決を破棄して更に相当な裁判あらんことを希望する次第である。

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